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![]() # by Itsuro-Shiraishi | 2008-05-18 11:08
![]() # by Itsuro-Shiraishi | 2008-05-18 06:11
![]() ![]() 本書の物質と記憶で最も重要な概念はイマージュであるが、このイマージュとは物質と表象の中間物という位置付けがなされており、物質は諸イマージュの全体であるとされる。このイマージュの概念は複雑性科学やアフォーダンス理論、オートポイエーシス理論、ルーマンの社会システム論、情報学、ハイデガーの「用材性」という概念、ドゥルーズやフーコーの諸理論、あるいは記憶や想起の観点からはベンヤミンの諸理論、さらにはネット社会問題だとサイバーカスケードなんかと絡ませて考えてみると非常に面白くなる。というのもベルクソンは実在=モノ自体の世界を人間は知覚することができず、イマージュを通してでしかそれが可能ではないという事を明らかにしているが、それは我々が対象を知覚するときに対象が持つ複雑性を縮減する事でしかあらゆるものを知覚する事ができないという事に他ならない。人間は物質的な実在=モノ自体の世界といったものに内在する原情報、すなわちアフォーダンスの全てをベルクソンの言葉を借りれば純粋知覚する事ができないため、各人の利害関心にそったイマージュが用材的に作られる事になる。つまり、知覚はオートポイエーティックだと言える。また、本書で現在とは行動の内に存しているが、我々が持つ記憶による想起のために純粋に目の前の対象を知覚する事ができないとされる。このことはベクトルは多少異なるものの、「現在において潜在化した過去」というベンヤミンの観点とも共通点が見られる。ベンヤミンは現在における潜在化した過去性を肯定し慈しんだが、ベルクソンは想起が生む反復によってなされる知覚によっては自由が制限されるという考え方を持っているように思う。いずれにせよ要点はイマージュという複雑性が縮減されたことによって生成するもの、さらには過去を「潜在化した情報」とする観点は今後の研究の大きな武器になる予感がするので先に列挙した理論と絡ませて今後考えていく必要がある.
《序》
『複製技術時代の芸術作品』においてベンヤミンの定義するアウラを次のように要約できる。「芸術作品のオリジナルは<いま-ここ>的性質を持つがゆえに真正さを持つ。その真正さとは、その事物において、根源から伝承されうるものすべてを総括する概念であり、これにはこの事物が物質的に存続していることから、その歴史的証言力までが含まれる。この性質をアウラという概念で括るならば、それは空間と時間から織り成された不可思議な織物である」。このようなアウラという概念を提示し、ベンヤミンは芸術作品が技術的に複製可能となった時代においてはこのアウラなるものが衰退する事を明らかにしている。 確かに、近代に発達した複製技術の下で生まれた写真芸術は、機械によってオリジナルと寸分違わぬ作品を無限に作りだす事ができる。そして、それはベンヤミンが指摘しているように、オリジナルの絵画が持つような<いま-ここ>的性質を有していない。そして、それはもはやオリジナルとコピーという、真正さを基準にした事柄が無効になる事を意味している。ボードリヤールはこのようなオリジナルとコピーが融解して何が本物で何が偽者であるかわからないような世界のあり方をシミュラークルという概念で言い表そうとしたが、シミュラークル的な性質を有する物は、写真だけに限られない。ここでは現代におけるシミュラークル化した事柄を具体的に提示したうえで、それらの在り方とはどのようなものなのかという事を考えていきたい。さらに論点をはっきりさせておくならば、「シミューラクル化した都市を生きる私達の生活において、キッチュなものにアウラ的なものは宿るか。宿るとすればどのような形で達成されるか」という事を中心に考えていきたい。もっとも、キッチュとは「まがい物」の意味でも使われるが、本物と偽者が無効になる事を意味したシミュラークルという概念において真贋の区別は意味を持たないため、ここではキッチュを「俗悪なるもの」といった程度の意味で使っていきたい。また、(いま-ここ)的性質を持ち、歴史的証言力を有するという前提の下で成り立つ真正なものが帯びる性質といった意味でベンヤミンが使ったアウラという概念も、シミュラークルという概念の下では、まがい物が存在しない事と同様に真正さも存在しない事になるためアウラも成立しない事になってしまうが、真正であるか否かは後に検討していくものとして、ここでは「(いま-ここ)的性質を持ち、歴史的証言力を有するものが帯びる性質」といった意味にアウラの定義を限定しておきたい。 《廃墟に宿るダイナミクス》 軍艦島の通称で知られる長崎県の端島は19世紀に石炭の存在が発見され、1890年から三菱財閥の所有となった後、石炭採掘のため周囲を埋め立て、大正期以降には鉄筋コンクリート造の集合住宅群が建設された。人口が最盛期を迎えた1960年には5267人の人口がおり、人口密度は世界一を誇り東京特別区部の9倍以上に達した。また炭鉱施設・住宅のほか、学校・店舗・病院・寺院・映画館・理髪店などもあり、島内において完結した都市機能を有していた。いわゆる典型的な産業都市である。1960年以降は、主要エネルギーの石炭から石油への移行により衰退し、1965年に新坑が開発され一時期は持ち直したが、1970年代以降のエネルギー政策の影響を受けて1974年1月15日に閉山した。閉山時に約2,000人まで減っていた住民は4月20日までに全て島を離れ、無人島となった。全盛期である1960年代前半の写真に写っている鉄筋コンクリート造の集合住宅郡は入り組んだ廊下等はあるものの、いわゆる典型的な高層アパートであり、特筆すべき点はあまりなく、キッチュと言っても差し支えないほどのありふれた住宅である。ところが島が住民に捨てられ無人島として年月を経る毎にそこにある集合住宅郡が放つ空気は全く異なる様相を呈するようになる。軍艦島の変容の様子は写真集や資料で詳しく見ることができるが、閉山から30年以上経った今でも、軍艦島の集合住宅の廃墟郡はそのまま残されており、中には倒壊寸前の建物があるほど荒廃している。長年風雨に晒されたためかガラスは殆ど割れ、外壁が崩れ、鉄筋が飛び出し、建物内部にある金属は原型を留めていないほど錆が付着している。日常において目にする整備された建築物と比較するとその様子は静的というよりどちらかというと動的だ。写真から見ただけでそれらの廃墟郡を動かしている“荒廃”というダイナミクスを感じる事ができる。皮肉なようだが、荒廃によって建築物が“生”を宿しているようにすら見えるのだ。軍艦島では年々瓦礫の山が増えているそうだ。それは軍艦島が<いま-ここ>で動的に存在している事を意味してはいないだろうか。もちろん、それは死へのダイナミクスであるかもしれないが、“生きる”という事は日々死んでいく事と捉えられなくもないから、荒廃が持つダイナミクスは生への力であり、死への力だとも言える。ともあれ、キッチュなものとして生まれた建築郡がまさに荒廃というダイナミクスに支えられ、圧倒的な歴史的証言力を有しながら、<いま-ここ>で変貌を遂げている様子は、ベンヤミンが言うようなアウラが生成されていると言えないだろうか。そこには本来のキッチュな姿から転生を遂げ、語義通り新たな“original”として生き始めている建築物の姿がある。そういった意味でこの軍艦島の鉄筋コンクリート造の廃墟郡は、ますますシミュラークル化してきている現代の都市を考える上で示唆に富んだ存在である。軍艦島は露骨なまでに荒廃のダイナミクスを有しているからこそ、むしろ豊かな生の表情を得た。一方、東京では廃墟がすぐに取り壊されるように、現代都市では新陳代謝が活発である。それがゆえに建築物は画一的な表情をするようになる。もちろん建築物のデザインが画一的と言っているのではない。端的に問題提起するならば、現代都市において建築物は荒廃という死へのダイナミクスを許されていないからこそ、生のダイナミクスさえも希薄に見え、それゆえ画一的な表情に見えるのではないかということだ。この事を踏まえた上で次に塚本晋也のインタビューと映画をヒントに都市における我々人間の身体について考えていきたい。 《都市における身体》 身体は従来、場所という空間内部での具体的な事物との関係においてその現実性が確認されてきた。手を延ばして触ることのできる事物の現実性や足を運んで到達できる事物の連続性などを基にして、自己とは異なる他者や物、部屋や建築物、都市空間や環境空間との関係において、そこにつながっているかぎりにおいて確認されてきた。ところが現代に登場したヴァーチャルリアリティーの出現によって、この特定の身体性が揺らぎ始めている。CGを使った3D映像やシュミレーション技術の発達によって、身体は瞬時に特殊な空間に侵入できるようになってきた。このようなコンテクストが移り変わるような環境のもとでは身体は一意的に支えられるものではなくなり、確固不動の身体というものがもはや保てなくなっている状況になりつつある。映画監督、塚本晋也は初期の『鉄男』から中期の『バレットバレエ』にかけてそういった身体の危機をテーマに扱ってきた。塚本は『六月の蛇』を製作した後に、取材のインタビューで以下のように答えている。 “平たく言うと「肉体に戻りましょう」ということなんです。『東京フィスト』を作ったときは、肉体的なものがだんだん喪失してゆくようなイメージがありました。東京は電脳都市とかよく言われますけど、まさにそんな感覚で、コンクリートの蜂の巣みたいのがあって、そのなかに脳味噌だけが並んでいるような感じです。電気で複雑に交信しているんだけど、なんか肉体的なコミュニケーションがないという印象があったので、そんな肉体感が喪失してゆく恐怖みたいのを解放する映画を作りたかったんです。肉体感覚が喪失してゆくと、切実に生き死にを感じたりするのが弱まってゆきますよね。すぐそこでは戦争があって、違う国では人がバタバタと倒れているのに、平和すぎたり、過保護にされすぎていることによって、そういうものを見ないでいられる幸福やありがたみがわからなくなっている。実際に死体を見ていると恐いはずなんですけど、生き死にという切実なものに触れないでいると、 いつか死ぬという感覚も、妙に掴めないというか。『六月の蛇』では、東京に来ている人が、カチカチになっていく様を描いているんです。コンクリートの中で平和に暮らしているはずなんだけど、クリーンな所にいると、過剰にそのことを守ろうとして妙に潔癖症だったり、清潔感がありすぎて、ちょっとでも自然のものが入ってきたりして崩れてゆくと、気持ち悪いという強迫観念みたいなものを感じてしまう。平和で自由なはずなのに、機能的な生活にカッチリしすぎて、だんだんがんじがらめになってしまうという所から、いろいろ生じるのかなぁという気はします。僕が描いているのは、器があることを忘れてしまっている人達なのかもしれない。触ったり叩いたりという具体的な刺激を与えて、肉体を疎かにしている人に、肉があることを感じさせたり、覚醒させるということだと思うんです。” 塚本の言葉と作品をヒントにしつつ今まで論じてきた事に即して都市における身体を考えていくとするならば、塚本の危機感はヴァーチャルリアリティーの出現によってシミュラークル化した身体がキッチュなものになっている事に対する違和感に起因する事は彼の言葉からも明らかだ。そして上記のインタビューでは詳しく語られていないものの、キッチュな身体から彼の言う「肉体に戻る」を達成する試みが映画の中で為される。特に「東京フィスト」において、塚本晋也演じる主人公は背広にネクタイといったステレオタイプなサラリーマンの姿をする事で現代人のキッチュな身体の表象として描かれるが、ボクサーに恋人を奪われた事がきっかけで自らもボクシングを始め、徐々にそのボクシングによる“痛み”を通じて自らの肉体感覚を取り戻していく。また、恋人も全身にピアッシングをする事で身体感覚を取り戻そうとする。さらにこの恋人達は物語の終盤で顔の形が変形するほど殴り合う。執拗なまでにここで繰り返されている「“痛み“を通してキッチュな身体から真の身体を回復させる」というロジックは、先ほどのキッチュな建築物が荒廃のダイナミクスを通す事によってアウラを獲得するというロジックの方向性と全く同一のものである。いわばシミュラークル化した身体は、都市の建築がそうであるように、死ぬことも生きることもできないような表情をしていると言える。塚本はそういった“痛み”という身体の破壊を通じて逆説的に自己の回復を図ろうとしているのだ。さらに言い換えるならば、“痛み”という<いま-ここ>的な現象を通す事によって、自らに張り付いたキッチュなものとしての身体ではなく、その内部に眠るoriginalな歴史性を持つ身体への自覚を促そうとしているのだ。 《キッチュのメタモルフォーゼ》 ここで「シミューラクル化した都市を生きる私達の生活において、キッチュなものにアウラ的なものは宿るか。宿るとすればどのような形で達成されるか」という最初の問いに対する一つの答えが用意出来るように思う。つまりシミュークル化した都市において、荒廃や破壊、そして痛みや逸脱といった、いわば負のダイナミクスを通して出来た裂け目から<いま-ここ>的な要素と同時に歴史性にも邂逅できるのではないだろうか。もちろんそれはベンヤミンがいう意味での真正さを有していないかもしれない。何故ならシミューラクルで溢れる都市の元で生まれた建築物や身体は、そのどれもが生まれにおいて、もしくは生まれてすぐに社会という枠組みを通して、ありふれたキッチュなモノにならざるを得ないからだ。だがキッチュなものは軍艦島の廃墟郡や塚本晋也の映画における身体のように、時に負のダイナミクスを通じて<いま-ここ>的性質と、歴史的証言力を有するものに変貌を遂げる事がある。それはもはや生まれにおいて持っていたキッチュな枠組みを捨て去り、新たなoriginalなモノとして転生したと考えるのならば、それは一つの真正さ、少なくともアウラの一端に触れている存在だとは言えないだろうか。無論、繰り返すようだがアウラは真贋の区別がはっきりつける事ができた複製技術以前の芸術に対して特に有効だった概念であるし、シミュラークル化した社会の元では本物と偽者の区別をつけられないゆえにナンセンスだと思われるかもしれない。確かに、キッチュなものからもアウラが生成されるという主張はある種、“個性”といったものに対する幻想を抱く者と同様のナイーブさがあるかもしれない。もっとも“アイデンティティ”や“本当の身体"というのはポストモダンの現在においては容易に脱構築されうるものだし、特別な何かを求めてしまう人間のロマンティシズムは今や滑稽なものとなりつつさえある。では、すべてが相対化されうる今日において、世界はのっぺりとした平面のようなものなのだろうか。全てを俯瞰できる地点からこの世界を見ることができるのならば、あるいは世界はそのように見えるのかもしれない。しかし、にもかかわらず物事に意味を求めてしまうのが人間であるし、できればoriginalでありたいとする欲求は生きる事と隣り合わせであるようにすら思う。それゆえ廃墟の魅力や塚本の映画における身体の捉え方に潜むoriginalというものに対する希望は、都市が持つ同化圧力や均一性といったものに我々が対峙した時に利用できる思考のツール(もちろんそれすら一種の幻想ではあるのだが)になりうるかもしれない。 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2007年度の流行語大賞となったKYは「空気読めない」という意味の略語であり、転じて空気読めの意味でも使われている。この言葉は学校や職場だけではなく、ネット上のコミュニティにおいても頻繁に使われるようになっており、その場の空気を読めない者はこのKYというレッテルが貼られ、コミュニケーションから排除されるという現象が起きている。では、そもそもこの「空気」とは何なのか。社会学的な分析を始めるにあたって、まずは逸脱論やレイベリング理論を参考にしてこの「空気」について考え、その後、KYという事柄が社会学的にどういう事を意味しているのかについて論じていきたい。
マートンが規範からの偏差を逸脱としたように一般的に社会学でいう逸脱とは規範(norm)から外れる事を指すわけだが、ベッカーは逸脱を次のようにもう少し詳細に定義する。 “社会集団は、これを犯せば逸脱となるような規則をもうけ、それを特定の人々に適用し、彼らにアウトサイダーのレッテルを貼る事によって、逸脱を生み出すのである。この観点からすれば、逸脱とは人間の行為の性質ではなくして、むしろ、他者によってこの規則と制裁とが「違反者」に適用された結果なのである。逸脱者とは首尾よくこのレッテルを貼られた人間のことであり、また、逸脱行動とは人々によってこのレッテルを貼られた行動のことである。” この事を踏まえて「空気」に話を戻すと、「空気を読め」という言葉からもわかるように場の「空気」という事柄がある種の規範として機能し、「空気を読めない」事が逸脱としてラベリングされているのは明らかだ。ここで規範として機能する「空気」というのは、コミュニケーションにおける繋がりや協調性の度合いを示す指標であり、その規範を逸脱する者はそのコミュニティでは成員としては認められない。「空気」は共感の指標であり、それは言葉においては異化効果を得られる省略表現やスラング等として表れる。例えば2ちゃんねるでは「w」、「乙」、「ぬるぽ」、「おk」、「ワロス」、「ちょwww」等の様々な省略表現や敢えて誤字を使ったスラングが使われており、それらを使う事で「空気を共有している」という親近感のあるメッセージを送る事ができる。またそれらのメッセージの受信者も発信者と同様に、意味が理解できるという暗号解読のカタルシスを味わう事で場の空気を共有する事を可能にする。しかし逆に、その省略表現やスラングを解さない新参者が現れると、2ちゃんねるの住人達は「一年ロムれ」という具合に新参者を蚊帳の外に置こうとする。つまり省略表現やスラングは仲間内では親密さを増すための道具として、一方それらのコミュニケーションの暗号を解さない者に対しては排除の道具として機能する。もちろん空気というのはこのような言語的要素だけからなるものではなく、非言語的要素、すなわちメタメッセージをも含んでいる事に留意しなければならない。しかし、このようなメタメッセージも基本的には一種の暗号として働くため、機能としては仲間内には共感の原理、そして「規範=空気」から逸脱した者には「逸脱者=KY」というレッテルを貼る事で排除の原理として働く。これに関連して再びベッカーのレイベリング論の話に戻そう。彼は逸脱の経歴をモデル化するにあたって逸脱三段階説という継起的なモデルを主張する。その大まかな部分を説明するならば、第一段階において、コミットメントの影響下にある行動が非同調的行為の遂行として周囲に認識される。第二段階においては、その行為により公然と逸脱者のレッテルを貼られ、当人も「逸脱者」としてのアイデンティティを公的に獲得する。そして第三段階において組織化された逸脱集団への加入、そして逸脱的な下位文化の誕生と同調、あるいは「正常な」人々とのさらなる非同調といった出来事が生じるとした。この逸脱三段階説を「KY」に応用すると次のようになる。すなわち、第一段階において、新参者は暗号が分からないためにその集団内の規範=場の空気から逸脱し、第二段階においては「規範=空気」を理解しない新参者に対して一方的に「逸脱者=KY」のレッテルが貼られ排除される事で、逸脱者自身も「逸脱者=KY」というアイデンティティを自己成就的予言のように獲得する。そして第三段階において「正常な人々=空気を解する人々」とのさらなる非同調が生じ、学校等ではマジョリティから排除されている者同士の友人グループへ加入したり、2ちゃんでは“煽り”等と呼ばれる者達に結びつくようになる。もっとも、逸脱のレッテルを貼られた者の視点からすれば、その規則をつくった人々が逸脱者、すなわちアウトサイダーとして見えているのであり、当該行為が逸脱行為としてカテゴリー化しうるか否かを決める要因となっているのは本質的には権力の差異だという事には留意する必要がある。とはいえ、逸脱者の共通点とはそのレッテルを貼られ、アウトサイダーとしての烙印を押されたという経験であり、とりわけKYという事柄においては程度の差こそあれ「イジメ」のような事柄に繋がっている状況も少なくないように見受けられる。では、何故このような「空気」という一種の規範が過度に重視されるようになり、「KY」といった形で問題化されるようになったのだろうか。そして日本における今までの「空気」を巡る、人々の動きはどうだったのか。様々な人間の考察を参考にして、そういった事柄を次の論点にしていきたい。 「空気」が重視されるようになった背景を考えるにあたってまず参考にしなければならないのが、山本七平の『「空気」の研究』という名著だ。山本は日本には知人と非知人を区別し、危難に遭った時に知人なら助け、非知人なら黙殺して積極的に関わらないようにするといった差別の道徳がある事を指摘する。また、1945年4月の戦艦大和による沖縄特攻作戦時の海軍軍令部次長小沢治三郎中将の“全般の空気よりして、当時も今日も特攻出撃は当然と思う”という発言を引いて次のように述べている。 “この文章を読んでみると、大和の出撃を無謀とする人々にはすべて、それを無謀と断ずるに至る細かいデータ、すなわち明確な根拠がある。だが一方、当然とする方の主張はそういったデータ乃至根拠は全く無く、その正当性の根拠は専ら「空気」なのである。従ってここでも、あらゆる議論は最後には「空気」で決められる。最終的決定を下し「そうせざるを得なくしている」力は一に「空気」であって、それ以外にない。これは非常に興味深い事実である” そして山本は日本には「抗空気罪」があったという仮説を立て、これに反すると「村八分」刑に処せられるような絶対的な権力を「空気」が保持していたと推論している。確かに今日においても小泉政権期のポピュリズムやネット上のサイバーカスケードを見るにつけても、山本が指摘しているように日本は「空気」という規範が支配しやすい土壌を今でも持っているように感じる。とはいえ、現在のKY問題は宮台真司が指摘しているように「空気」に支配される以前の“そもそも「空気」を感じるか感じないか”において問題の分岐が生じている。ではいつ頃から「空気を読めない」という事が言われはじめたのだろうか。宮台は次のように主張する。 “「空気を読め」というメッセージが発せられるようになったのは実は相当な昔からです。私は団塊世代が我々の同世代を「新人類」と呼んだ頃からだと思います。1960年前後生まれが新人類世代です。団塊世代との決定的な違いは、差別化競争に勤しんだということです。ウィリアム・コノリーの「アイデンティティ/差異」という図式を使えば、団塊世代は世代間差異を用いて集合的アイデンティティを構築しましたが、新人類世代の時代には既に世代間差異が消費し尽くされていました。そこで新人類世代は、世代内差異を用いて集合的アイデンティティを構築しはじめます。70年代後半から「分かる奴には分かる」「分からない奴には分からない」といった差別化競争に勤しみ、ネクラ/ネアカ、まる金/まるビ、新人類/オタク等の分類を生み出します。新人類世代の「分かる奴には分かる」的な差別化コミュニケーションはむろん年長世代にはちんぷんかんぷん。だから彼らは我々を「新人類」と呼んだ。つまり「空気を読めないヤツ」に見えたということです。でもこうした差別化コミュニケーションは、同質的な世代の内部に新たな差異の線を引く営みです。だから新人類世代は、線を引くビフォアとアフターを両方知っている。差別化されるプロセスを記憶している。ところが、後続世代たとえば団塊ジュニア世代では、新人類世代が苦労して作り出した分類にタダノリしているだけです。そこには差別化に向けたダイナミクス(運動)がありません。こうして視界の透明性が、まず世代間で、やがて世代内で失われました。この状態を私は「島宇宙化」と呼んでいます。最初に島宇宙化したのは70年代前半に生まれた団塊ジュニア世代。彼らがハイティーンになる80年代後半から前述したノリへの強迫が生じてきました。そこでは「空気を読めない奴」の意味が、世代間で名指す「ワケの分からない奴」から世代内で名指す「ノリに乗れない奴」に変わりました。「ワケの分からない奴」は異なるトライブ(種族)に分類されるだけですが、「ノリに乗れない奴」はイジメの対象になります。 ” では「空気を読めない」という現象が生じる根本的な要因とは何だったのだろうか。北田暁大は『嗤う日本の「ナショナリズム」』において他者との共通前提が崩壊した今日の状況下では携帯のようなツールが生み出すコミュニケーションの高速化と人間関係の過剰流動のために不安が生じ、逆にその埋め合わせとして何らかの他者との共通前提(北田の言葉で言えば“繋がり”)をロマン主義的に希求させてしまうために、2ちゃんにおける祭りやネット右翼が生まれてしまうのではないかという議論を展開しているが、この議論を包括する内容として東浩紀が使う「動物化」や「セキュリティ」といった概念を使う事により、この問題がよりクリアになるように思う。すなわち、フーコーが指摘したような規律訓育型権力のように権力の視線を内在化した近代的自我は「他人からどう見られるかがわかり」かつ「他人からどう見えるかを気にする」存在であり、他者とのコミュニケーションにおいて社会性を持っていたのに対して、ポストモダン的状況においては大きな物語(共同体における規範や共通前提)が崩壊しているために他者との価値観の共有は志向されず、コミュニケーションにおいても社会性が低い。それはかつての物差しから見ると「感情が壊れた」ように見える存在であるため、東はそういったポストモダンにおける社会性の低い人間を「動物化」していると表現した。さらに、動物化が進むと共通前提が益々機能しなくなるため、さらなるアノミー状態に陥る。そのため、人々の犯罪が生じやすくなり、それを補うために至る所でセキュリティ化が要請される。そしてそのセキュリティ化こそが人々の監視、さらには個人の情報の管理を進めてしまい、権力が至る所に遍在するような管理型権力を生んでしまうというのが東の一連の指摘だ。ここからが重要だが、ここで東が言う社会性あるいはセキュリティも「空気」との関係で読み替える事が可能ではないだろうか。というのも、規律訓育型権力の下で権力を内在化した人間が持っていた社会性とは共感の下で始めて成立する「空気を読む能力」をも含んだ概念に他ならないからだ。そうであるならば、ポストモダン的状況において大きな物語が崩壊したために「人々を結びつけ、価値観を共有する能力=空気を読む能力」の弱体化が生じ、「空気」を読めない奴、すなわち「KY」を生み出す要因となったと言えるだろう。さらに、その負の要素を補うために「セキュリティ化=空気を読め、という過剰なまでの要請」が生じているとも言い換える事ができるのではないだろうか。ここでの論理を簡潔に纏めると、要するに共通前提の不在によるアノミー状態において、その共通前提の埋め合わせとしての反動が今日のヒステリックなまでの「空気」への同調圧力を生じさせているのではないか、という事だ。 《参考文献》 東 浩紀 『情報環境論集』 講談社 2007年 東 浩紀 『動物化するポストモダン』 講談社 北田暁大 『嗤う日本の「ナショナリズム」』 NHKブックス 2003年 宮台 真司、神保 哲生、東 浩紀、水越 伸、西垣 通、池田 信夫 『ネット社会の未来像』 春秋社 2006年 東 浩紀、北田 暁大、宮台 真司、鈴木謙介、大澤 真幸 『波状言論S改』 青土社 2003年 作田啓一、井上俊編 『命題コレクション』 筑摩書房 1986年 山本七平 『「空気」の研究』 文芸春秋 1977年 冷泉彰彦 『「関係の空気」「場の空気」』 講談社 2006年 宮台真司 MIYADAI.com Blog http://www.miyadai.com/index.php?itemid=598 『出でよ、新しき知識人 「KY」が突きつける日本的課題』 内田樹 内田樹の研究室 http://blog.tatsuru.com/2008/01/05_1559.php 『恐怖のシンクロニシティ』
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